夕顔観音伝説

夕顔観音

ある日、夕顔姫は両親に「武州元木村に庵を建てて、心安らかに暮らしたい」と願い出ます。
そして庵の側に持仏堂を建てて、新しい暮らしを始めました。
夕顔姫の庵にはその優しい人柄と信仰心を慕って、多くの人々が集まってくるようになりました。夕顔姫はそれらの人々を分け隔てすることなく、温かく迎えたのです。
やがて夕顔姫は庵に集まってくる子どもたちに、読み書きを教えるようになりました。
大人たちも夕顔姫に読み書きを教わるようになり、どんな相談でも親身になって聞いてくれる夕顔姫に、人々は大きな信頼を寄せるようになります。
ところが数年たったある日、夕顔姫は風邪がもとで亡くなってしまいます。
子どもたちは大声で泣きじゃくり、大人たちも悲観にくれていました。
人々は在りし日の夕顔姫を偲び、その姿を観音像に刻んで、夕顔姫の威徳を末永く後世に伝えたいと考えました。こうして、人々の思いを込めて刻まれた観音像は、いつしか「夕顔観音」と呼ばれるようになり、人々の篤い信仰を集めるようになったのです。

鐘ヶ淵伝説

鐘淵伝説

関東管領・上杉氏を越後に追いやった北条軍は足立の地にも進軍して、千葉氏は武運つたなくその軍門に下ります。
勝利の美酒に酔う北条一門の武将たちの間で、千葉氏所縁の瑞応寺にあるという名鐘のことが話題になり、戦利品として持ち帰ることになりました。
その鐘は噂に違わぬ見事な鐘でした。鐘は瑞応寺の鐘楼からはずされ、荷車に乗せられて船着場まで運ばれます。
船着場には多くの人々が集まり、由緒ある瑞応寺の鐘が持ち去られると聞いて悲しみますが、その悲しみを無視して船は出ていきます。
しばらくこぎ進めると鐘から不思議な音が聞こえてきました。それと同時に穏やかだった川面が荒れ始め、やがて嵐と共に船が沈みそうなほど、うねりが高くなってきました。
慌てた北条軍の手によりやむなく鐘は荒川に沈められ、その場所が後に「鐘ヶ淵」と呼ばれるようになって現在まで伝説として語り継がれているのです。