鎌倉時代、総武の地に勢力を伸ばした千葉一族に、夕顔姫という心優しく美しい姫君がいました。夕顔姫は父母に願ってこの地に庵を構え、篤い信仰心を持ちながら地域に奉仕し、多くの人々に慕われました。
夕顔姫亡き後も人々はその徳を偲び、夕顔姫が遺した持仏堂を改築して信仰の場としたのが、瑞応寺の起源と伝えられています。
夕顔姫が遺した持仏堂は、当初はささやかなものだったと推察されますが、千葉氏の庇護により次第に堂宇が整えられていきました。新編武蔵風土記に「瑞応寺、阿修羅山と号す。明応七年(1498年)の草創といへり。本尊、観音を安置せり」という記述が残っており、この頃には立派な寺院として、多くの人々の信仰を集めていたと思われます。当時、寺の門前に「大門町」という地名があったという記録からも、瑞応寺が七堂伽藍が備わった名刹だったことがうかがえます。
その他にも「夕顔観音伝説」や「鐘ヶ淵伝説」など、瑞応寺にまつわる伝説が数多く残っていることからも、同寺が長年にわたり地域の人々の心の拠り所だったことがわかります。江戸時代になってからも、近くの吉祥院の末寺として栄えていましたが、昭和二十年四月の戦災により、堂宇と共に多くの寺宝が失われました。
しかし近年は、中島剣山住職と檀家の皆様をはじめ多くの皆様のご尽力により、徐々に寺域の整備が進んでおります。また春には、境内に咲く満開のソメイヨシノを楽しみに、多数の皆様が集まって盛大に「花祭り」が開催され、折々には子どもたちのために「人形劇」が行われるなど、「地域に開かれたお寺」として皆様に親しまれております。