この鐘を接引き上げようとした人物もいた。享保(1716-36)の末年のこと、徳川吉宗がこの伝説に魅せられたか、是非ともその鐘を引き上げよ、と命じたのである。
そう言われても、簡単にできるわけがない。ひょっとしたら、大象をも繋(つな)ぐと言われる 娘の黒髪を編んだ大綱ならば何とかなるかもしれませんが・・・と聞いた将軍は、早速江戸市中の娘数百人分の髪を集めて毛綱を作らせた。
綱は、龍太郎という潜りの名人が鐘に結びつけることになった。将軍から拝領の菊一文字の短刀を口にくわえ、水底へ潜った龍太郎は、水草のびっしりとまといついた大鐘が横たわっているのを見つけた。腰の元綱を解き、鐘の竜頭に結びつけていると、水底の暗がりから美しい娘が現れて、龍太郎に優しく悟すように話しかけた。
「これは主のある鐘ですのに、勝手に持っていったりしてはいけませんわ」 しかし、龍太郎としては、将軍の命令でもあるし、そうですかと引き返すわけにもいかない。そう言うと娘は、 「では、貴方の顔を立てて、水面までは浮かせてさしあげましょう」と言う。
龍太郎の合図にしたがって、数百人の人夫がいっせいに網を引いた。鐘は浮きあがっていった。やがて水面近くに姿を現わし、竜頭が水面を離れようとする刹那、太い毛綱はプツリと切れ、鍵は再び水底へと姿を消してしまった。一瞬見えた竜頭がいやに光って気味悪かったという。
水中に鐘が沈んでいるという伝説は各地にある。龍神がその鐘を守っている場合も多いが、この鐘ヶ淵でも、水の主は鐘に深い愛着を持っているようである。龍神は一般的に金気を嫌うと言われるのだが、なぜか鐘だけは例外になっている。
鐘は水の主と人間との契約の証 鐘はおそらく龍神との契約を示しているのだろう。足立区は川によって育てられた土地だが、同時にたえず川に浸されていた土地でもあった。徳川氏が江戸に入ってから、伊奈備前守忠次とその子孫によって、利根川、鬼怒川、小貝川、荒川などの流れが大きく変えられ、江戸川、逆川などが切り開かれて、徐々に洪水は減っていった。それでも改修工事中の荒川が氾濫して江戸を水浸しにしたこともあった。足立区はほとんどが低湿地で、荒川、綾瀬川、利根川の洪水に絶えずさらされ、定住して農耕を営めるような土地ではなかったのである。河川改修が進み、新田開発が行なわれてはじめて定住者が増えていった。鐘ヶ淵はちょうど、隅田川が曲尺(まがりかね)のように屈曲した場所なので、尺(かね)が淵と呼はれるという説もあるが、たぶん大水の出やすい場所だったのであろう。
鐘の響きは古来、この世の外にまで通ずるものと考えられていた。群馬県には、正確な時刻に鐘を撞くと物の怪が現れるので、小便をして少し時をずらして撞くという寺があったという。また鐘を撞く人も、他界にかかわる職業と思われたためか、賤(いや)しめられていたくらいだった。江戸時代、日本橋本石町に時を知らせる鐘撞堂があったが、宝暦(1751-64)の頃、鐘撞役の辻源七の娘おつゆは轆轤(ろくろ)首だという噂が流れていた。鐘撞きは業深い職業だから自然に人の恨みを受け、それが根に報いたのだなどと言われたのである。鐘や、鐘の音がいかに特殊なものと思われていたかを示す話だろう。
今も神社の拝殿で鈴や鉦(かね)を鳴らすように、鐘に限らず金属の発する響きは俗世を超えて 他界にまで通ずるように考えられていたふしがある。例えば約束ごとを交わすときに、金打(きんちょう)といって、刀の鍔(つば)や鏡、鉦などを打って金属音を立てたが、そうすることで約束は当事者間の口約束ではなく、いわば神仏の立会った誓約にも均しくなった。鐘ヶ淵の鐘も、水の主と人間との問で交わされた契約の証だったのかもしれない。約束とはもちろん、もう洪水を出さないということだったにちがいない。【東京妖怪地図(祥伝黄金文庫)より抜粋】