東京妖怪地図

千住のあたりの隅田川が大きく屈曲しているところは鐘ヶ淵と呼ばれ、昔から川底に大釣鐘が沈んでいると言われていた。釣鐘の由来はいくつも伝わっている。
ひとつは享保5(1720)年の大洪水で流されてきたとするもので、もと釣られていた場所は橋場の長昌寺とも保元寺(法源寺)とも言われている。 別の説によれば、下総国足立郡隅田川三睦城内にあった福聚山普門院ものだったという。大永2(1522)年に城主千葉自胤(よりたね)の侍臣佐田善次盛光(さたのぜんじもりみつ)が、奸臣(かんしん)の讒言(ざんげん)によって誅せられるとき、観世音に祈って屠腹(とふく)(切腹)の刃を折ったところ、自胤の持仏堂の観音像から血が流れた。感服した自胤は、急ぎ城内に堂宇を築かせた。それが普門院である。ここの鐘が、元和6(1620)年に公命によって亀井戸へ寺が移される途中、鐘ヶ淵で誤って落とされたというのである。
さらに異説によれば、川底に沈んでいるのは、足立区扇町の、夕顔観音で有名な瑞応寺の鐘だったことになっている。瑞応寺は、千葉常胤(つねたね)が息女の夕顔姫の菩提を弔うために建立(こんりゅう)したという縁起をもつ。
千葉氏は、もと源氏方の武将で、代々上総・下総を勢力下に治めていたが、足利氏に滅ぼされてからは、上杉氏を頼っていた。文明9(1477)年に長尾景春(かげはる)が上杉顕定(のりさだ)を襲ったとき、上杉家の宰相太田道灌(おおたどうかん)は、景春の配下で武蔵に勢力を張っていた豊島氏と戦い、これを滅ぼして、武蔵の実権を握った。このとき太田軍に加わって功をあげた千葉自胤は、その軍功によって赤塚城主となった。しかし、やがて北条氏が小田原を拠点に関東支配を進め、北条早雲(そううん)の孫氏康(うじやす)によって天文21(1552)年に上杉氏が越後に追われるに至って、千葉氏も北条氏の軍門に降(くだ)った。
戦に勝利をおさめた北条一門の武将たちは、戦利品として千葉氏ゆかりの瑞応寺の名鐘を持ち帰ることにして、隅田川に浮かべた軍船に積みこんだ。秋の穏やかな日射しの中を船は順調に進みだしたが、しばらくすると、どこからか女性のむせび泣くに似た不思議な音が響いてきた。よく聞くと、どうやらその音は積みこんだ鐘が発しているらしい。妙なことだが、風に吹かれて鳴るのだろうと、とにかく船は進めた。ところが、鐘の音は徐々に高まり、やがて強い唸りに変わり、その唸りにつれてそれまで静かだった水面が浪立ちはじめ、ついには船をも転覆させんばかりの凄まじい風雨と浪が荒れ狂った。きっと夕顔姫の亡霊が憑いているのだ。恐れをなした武将らは、鐘を川底へ沈めて難を逃れた。以後、そこは鐘ヶ淵と呼ばれるようになったという。 その鐘は、明治初期までは、川の水のきれいに澄んだ日に限って、かすかながら水底に見ることができたそうだ。

現在の鐘ヶ淵

この鐘を接引き上げようとした人物もいた。享保(1716-36)の末年のこと、徳川吉宗がこの伝説に魅せられたか、是非ともその鐘を引き上げよ、と命じたのである。
そう言われても、簡単にできるわけがない。ひょっとしたら、大象をも繋(つな)ぐと言われる 娘の黒髪を編んだ大綱ならば何とかなるかもしれませんが・・・と聞いた将軍は、早速江戸市中の娘数百人分の髪を集めて毛綱を作らせた。
綱は、龍太郎という潜りの名人が鐘に結びつけることになった。将軍から拝領の菊一文字の短刀を口にくわえ、水底へ潜った龍太郎は、水草のびっしりとまといついた大鐘が横たわっているのを見つけた。腰の元綱を解き、鐘の竜頭に結びつけていると、水底の暗がりから美しい娘が現れて、龍太郎に優しく悟すように話しかけた。
「これは主のある鐘ですのに、勝手に持っていったりしてはいけませんわ」 しかし、龍太郎としては、将軍の命令でもあるし、そうですかと引き返すわけにもいかない。そう言うと娘は、 「では、貴方の顔を立てて、水面までは浮かせてさしあげましょう」と言う。
龍太郎の合図にしたがって、数百人の人夫がいっせいに網を引いた。鐘は浮きあがっていった。やがて水面近くに姿を現わし、竜頭が水面を離れようとする刹那、太い毛綱はプツリと切れ、鍵は再び水底へと姿を消してしまった。一瞬見えた竜頭がいやに光って気味悪かったという。
水中に鐘が沈んでいるという伝説は各地にある。龍神がその鐘を守っている場合も多いが、この鐘ヶ淵でも、水の主は鐘に深い愛着を持っているようである。龍神は一般的に金気を嫌うと言われるのだが、なぜか鐘だけは例外になっている。
鐘は水の主と人間との契約の証 鐘はおそらく龍神との契約を示しているのだろう。足立区は川によって育てられた土地だが、同時にたえず川に浸されていた土地でもあった。徳川氏が江戸に入ってから、伊奈備前守忠次とその子孫によって、利根川、鬼怒川、小貝川、荒川などの流れが大きく変えられ、江戸川、逆川などが切り開かれて、徐々に洪水は減っていった。それでも改修工事中の荒川が氾濫して江戸を水浸しにしたこともあった。足立区はほとんどが低湿地で、荒川、綾瀬川、利根川の洪水に絶えずさらされ、定住して農耕を営めるような土地ではなかったのである。河川改修が進み、新田開発が行なわれてはじめて定住者が増えていった。鐘ヶ淵はちょうど、隅田川が曲尺(まがりかね)のように屈曲した場所なので、尺(かね)が淵と呼はれるという説もあるが、たぶん大水の出やすい場所だったのであろう。
鐘の響きは古来、この世の外にまで通ずるものと考えられていた。群馬県には、正確な時刻に鐘を撞くと物の怪が現れるので、小便をして少し時をずらして撞くという寺があったという。また鐘を撞く人も、他界にかかわる職業と思われたためか、賤(いや)しめられていたくらいだった。江戸時代、日本橋本石町に時を知らせる鐘撞堂があったが、宝暦(1751-64)の頃、鐘撞役の辻源七の娘おつゆは轆轤(ろくろ)首だという噂が流れていた。鐘撞きは業深い職業だから自然に人の恨みを受け、それが根に報いたのだなどと言われたのである。鐘や、鐘の音がいかに特殊なものと思われていたかを示す話だろう。

今も神社の拝殿で鈴や鉦(かね)を鳴らすように、鐘に限らず金属の発する響きは俗世を超えて 他界にまで通ずるように考えられていたふしがある。例えば約束ごとを交わすときに、金打(きんちょう)といって、刀の鍔(つば)や鏡、鉦などを打って金属音を立てたが、そうすることで約束は当事者間の口約束ではなく、いわば神仏の立会った誓約にも均しくなった。鐘ヶ淵の鐘も、水の主と人間との問で交わされた契約の証だったのかもしれない。約束とはもちろん、もう洪水を出さないということだったにちがいない。【東京妖怪地図(祥伝黄金文庫)より抜粋】