板碑1 |
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この板碑は、完形の弥陀三尊種子の板碑である。上部の三角形の山形もほぼ完全で、横の二条線も深く彫られている。
線刻の月輪の中に彫られた弥陀種子も、美しく力強い感じである。
種子をのせる蓮台もよい彫である。観音、勢至の二種子は、蓮台こそないが、大変よい彫りである。
種子の下右側に、「宝徳元年巳」の紀年銘があり、左側に、「六月五日」の月日がある。中央の「慶珎阿闍利」も読みやすい。枠線はない。周辺の欠け損じもなく、完全な形である。宝徳元年(1449)は、室町時代、足利義成の将軍の頃、後花園天皇の御代である。 |
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板碑2 |
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この板碑「2」は、山形の右端が、少し欠け損しているが、横に彫られた二条線は、太くはっきりしている。線刻の月輪もよく、弥陀種子も、薬研彫りでよい。種子をのせる蓮台も形よく、彫りもよい。右端の、「文明三年」の紀年銘、左側の
「十一月十二日」の月日も読みやすい。「妙西禅尼」の法名もわかりよい。下部の根部が、少し欠けている。左側に、線刻の枠線が認められる。文明3年(1471)といえば、後土御門天皇の御代、足利義政将軍の頃、東山文化の花咲き匂う頃である。 |
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板碑3 |
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弥陀一尊種子の板碑である。上部の山形には、欠け損じた所がない。線刻の二条線も明らかで、額部には、腐蝕がなく、種子の薬研彫も力強く感じられる。蓮座も彫りよくそして、中房が認められる。数多の花辨の彫りもよい。 紀年銘は、蓮台の下に、一行で、「正応二年八月日」と書かれ、年号は、草書体である。線刻の框線も、上下左右に認められる。根部の一部分右下が欠け損じているが、当区の最も古い板碑である。
正応2年8月日(1289)は、鎌倉時代、伏見天皇の御代である。 |
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板碑4 |
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この板碑は、小形ながら完全な形を保っている。上部の山形は、少しも欠け損じがない。横の二条線も太めで、あざやかである。薬研彫りの弥陀種子も、力強く感じられて美しい。蓮台の彫りもよく、かすかながら中房も認められる。紀年銘は、右に「康安二年」左に「十月日」と、彫ってある。珍しく、その下に、花瓶がある。花瓶は、高さ4p程であり、胴には、二条の帯線が刻まれていて、頚部は太めで1p程である。中の蓮華は、3.5p、左の荷葉は、2.5p、右の荷葉は、2p程である。当区にある板碑の中で、花瓶のあるのは数少なく、まことに貴重な板碑である。 康安2年10月日(1362)である。康安2年9月23日は、改元されて貞治元年である。また、南朝年号では、正平17年である。南朝の後村上天皇、北朝の後光厳天皇の対立時代である。時の将軍、足利義詮は、反軍を追って東奔西走の時である。混乱の時代である。現代と異なって、情報機構の不備な当時では、改元の事実を知るよしもなく依然として、旧年号を用いている。世相の一端を如実にわかるような板碑である。 |
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板碑5 |
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一尊弥陀種子の板碑である。上部の山形は、惜しくも欠け損じている。月輪の中には、薬研彫りの種子の一部がある。蓮台の一部の中房と思われるものも認められる。紀年銘は、左側に「延文六年」、花瓶をはさみて右側に、「五月廿五日」と彫られている。 花瓶は、高さ5p程である。胴には、二条の帯線が彫られてある。頸部は細目で、供花は、磨滅のためよくわからない。 線刻の框線は、右端下は、判明しないが、他はまことにはっきりしている。根部の右端が欠けているのと、上部の種子の部分が欠けているのが惜しく思われる。 延文6年といえば、1361年である。南朝年号の正平16年である。また、北朝年号では、延文6年3月29日は改元されて、康安元年である。北朝では、後光厳天皇の御代、南朝では、後村上天皇の御代である。そして、足利義詮が、父、尊氏の後をついで、二代将軍となった頃である。現代のように、情報機関の発達していない昔の事だから致し方ないとしても、約2月もすぎて、依然として、旧年号を用いて、武州の一角では板碑を造立している。これも当時の世相の一端と示すものと思われる。 |
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板碑6 |
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小型の一尊種子弥陀板碑である。上部の山形は、完全な形に近い。横の二条線も太めではっきりしている。額部も何等の磨滅もなく、線刻の枠線も細めであるが、明らかである。 種子も、蓮台も彫りがよく、美しい。紀年銘は、右側に「応永参拾三年」、左側に「十一月八日」と彫られている。中央には、「逆修教実」の四字が彫られてある。恐らく、信仰に厚い人が、生前に供養して、極楽浄土を切に願ったのであろう。この板碑は、小型ながら完全な形で保存されている。 応永33年(1426)は、称光天皇の御代である。南朝、北朝和議なって、北朝年号の「明徳」と、南朝年号の「元中」の両年号が改元されて「応永」である。その時代の板碑である。 |
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板碑7 |
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小型であるが、弥陀一尊種子板碑である。上部の山形は完全な形に近く、そして、横に彫られた二条線もはっきりしている。額部も、さしたる磨滅もない。種子は、薬研彫りで形よい。蓮台の彫りも形よく美しい。蓮台の下には、「本浄禅尼逆修」の六字が彫られている。信仰に熱心な一女性が生前に供養として造立したものであろう。紀年銘は「永享十三年」と右側に、左側には、「二月廿三日」と日時が彫られている。根部の右下端が欠け損しているのが惜しく思われる。 永享13年2月23日(1441)は、後花園天皇、足利義教将軍の時代である。 |
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板碑8 |
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この板碑は、区内に珍しい連碑である。縦66p、横104pである。区内でも最も大きいものと思われる。 その概形は、中央部の上端が欠けて凹部となり、両端の上部が、幾分丸味をおびて突き出している。右側に少し凸凹がある。左側は、中央部が突き出しているが、左側は、あまり凸凹がない。下部は、丸味をおびて、種子の下から欠けている。下部が欠けているのがいかにも惜しく思われる。もし、欠けていなかったならば、さぞかし素晴らしい板碑であろうと思われる。 枠線は、1pの幅で、上部から、左右にあざやかに、彫られている。中央の線から、左右の枠線まで 何れも41pである。 右側の板碑の額部には、五仏が、種子をもってあらわされていると思われる。種子の下には、蓮座がある。何れも十枚の蓮辨がある。右から、一番目は、カーン「不動明王」。二番目は、種子 バク「釈迦如来」である。三番目は、マン、「文殊菩薩」と思われる。四番目は、種子の下部だけで推読が困難である。けれども、蓮座だけは、明らかに認められる。五番目も、蓮座だけ明らかで、種子は全然わからない。 五箇の蓮台の中央下に、天蓋が彫られている。天蓋は、30pの幅にまたがり、そして、約8pの高さに及んでいる。薬研彫りで美しく立派なものである。天蓋の下には、種子、バク「釈迦如来」が彫られている。薬研彫りである。種子の全長は22p、幅は、20pに及んでいる。そして、種子は蓮台の上にあり、子房らしいものが認められる。蓮座の全容が見られないのは、まことに遺憾である。 天蓋から左右に、瓔珞がある。長さ24p、幅3p程である。上端には、二等辺三角形で、底辺4p、高さ1pであり、その下に、直径0.5p程の円球が、1.5pの間隔で、三列に、十五段に彫られている。そして、十五段目は、左右に三角形、中央には、円球が彫られている。その下に、底辺が1.5p、高さ1pの二等辺三角形が彫られている。 この瓔珞には、三角形四箇と、33箇の直径0.5pの珠で構成されている。そして、この間隔、左右前後の隔たりには、整然として、少しの乱れも見られない。彫刻師の精魂の程が思われる。瓔珞は左右とも、全く同じ造りである。連碑の左側は、磨滅の結果、種子は見られない。しかし右側と対照的な所に、左端から数えて、一番目の所に、蓮辨と思われるもの五枚、二番目の所に一枚、中央の天蓋の上に一枚認められる。一基の板碑に五仏、二基合わせて十仏となし、十仏の供養を考えたものと思われる。 蓮台の中央下と思われる所に天蓋が彫られている。天蓋は右側の板碑と、大きさその他、全く同じようである。 種子、キリーク「阿弥陀如来」は、天蓋の下に見事に彫られてある。彫りは、薬研彫りである。その最長は、30p、幅、20p程である。涅槃点は菱形に近く、幅1.5p、高さ1.2pの大きさである。彫りは、薬研彫りで見事である。 また、瓔珞は、右側の板碑と同じように、天蓋の左右から、全く同じ形式で造られている。この板碑がもし完全な形であったなら、さぞかし、素晴らしい立派な板碑であろうと思われる。下部が欠け損じているのが何としても惜しまれる。また、十仏か、それとも、上部に、十一仏と、釈迦如来と、阿弥陀如来と併せて十三仏かも知れないとの推定もなしうる。紀年銘がわからないので何とも断定しかねることは残念である。けれども当区としては、貴重な数少ない板碑の一つであると思う。 |
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板碑9 |
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武蔵連碑である。縦96p、横67pの大きさである。中央の線刻によって左右に別れる。右の板碑も、左の板碑も、横28pである。框線は細やかに彫られている。板碑の左上部の端が欠けているが、大体に於いて原形に近いと思われる。 右の板碑の上部には、天蓋が彫られている。天蓋の長さは、右端から、左端まで、23p程である。そして上下の高さは、8pである。右端には、瓔珞がある。上は、そろばん珠のような形である。その下に、十一段三列になって、小さい珠が彫られている。格段の間は、約1pであり、列と列の間は、1pである。そして一番下は、そろばん珠のような形で、横1.5p、縦1.5pである。天蓋の左右から下に、瓔珞が彫られている。その長さは、14p、幅は2p程である。十一段目は左右が三角形で、中央が小珠の形に彫られている。 また、天蓋の中央部には、3つの短い瓔珞が彫られている。この小さい瓔珞は、3箇の小珠と、そろばん珠のような形のもの1箇からできている。そして、小珠と小珠の間は1pである。また、小珠と最後のそろばん珠との間も1pである。この小さい瓔珞長さは、5p程である。また、瓔珞と瓔珞の間は、3p程である。 3箇の短い瓔珞の中央下、約1p程の所から、「南無妙法蓮華経」と、刷り書の7文字の題目が、42pの長さにわたって彫られている。美しい彫りである。中央の「南無妙法蓮華経」の右側には、23pの長さにわたって、「南無多宝如来」の6字が彫られている。そして、お題目の左側には、23pの長さに及んで、「南無釈迦牟尼仏」の7字が彫られている。美しい彫りである。 そして、右端の瓔珞の下、7p程の所から、「右志者為過去妙円霊也」の10字が刻まれていると思う。また、「南無多宝如来」の下、7p程の所に、「及□□□」の4字が彫られているように思うが、「及」の以下3字は読みえないのが残念である。恐らく供養者の人名であろうと思われる。 左端の瓔珞の下には、7p程の所に、「文和二年八月二十二日」の紀年銘が認められる。文和2年(1353)は、北朝年号で、後村上天皇の御代、南朝年号の正平8年である。 そして、「南無妙法蓮華経」の題目の下には、蓮台がある。9枚の花弁、中房も見られ、また、6箇程の蓮子が認められる。蓮台として可成、豪華なものと思われる。 連碑の中、左側の板碑は、天蓋、「南無妙法蓮華経」の題目、「南無多宝如来」、「南無釈迦牟尼仏」、「瓔珞」等、右側とほぼ同様である。 左の板碑にも、瓔珞の下、5p程の所から、「右志者為比丘尼□□」が認められる。さらに、その側下に、「得□□」の文字が彫られている。けれど、最後の方の文字は読みえない。 この連碑は、当区では、最大なるものであり、また最も古いものの一つである。墓地から発掘され、寺宝といわれている。この板碑を造立供養した人は、いかなる人であろうか、富、地位、権力、に恵まれた人と思われる。 当寺には、13基の板碑がある。紀年銘のわかる8基の中、1基は、鎌倉時代の中期、3基は、吉野時代、4基は室町時代の中期である。ことに、連碑が2基あることは、珍しい事である。 |
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